2018年2月26日月曜日

忘れられた巨人「中世の日本人」:400年前まで、日本は世界有数の訴訟超大国だった

以下は、
つぶやき(6)400年前まで、日本は世界有数の訴訟超大国だった(2014.10.22)
を一部編集して、再掲したものです。

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先日、原発告訴団に参加している福島の人から電話をもらった。そこで、子ども脱被ばく裁判が話題になり、その人が、
「裁判の原告になるって大変ですよ」
と言ったとき、私の感想は、
「原発告訴団は、相手を処罰せよだから、もし間違って訴えたら、冤罪で大変なことになる。だから、それができる位だったら、こどもを逃がして欲しいと訴えても、仮に間違ったとしても、誰も迷惑を及ぼさない。だから、本来なら、もっとぜんぜん気を楽にして原告になれる」
でした。
なぜなら、その人は、自分が裁判の原告になるなんてあり得ないという風に思い込んでおられる様子がありあり(^_^)。

私が、欧米では、下宿人が家賃を払わないと家主はさっさと裁判を起こす、まるで買い物でもする感覚ですよ、と言っても、それは海外のことだからと信じてもらえない。

それで、日本でも、少し前までは、欧米と変わらなかったことを伝えようと思ったのですが、ちゃんと証拠を示さないと説明責任を果たしたことにならないので、そのあと、調べた結果を報告します。

網野善彦という日本の中世の研究者として代表的な人物がいますが、彼の「中世の裁判を読み解く」という本の中で、鎌倉時代に、民衆が時の政府の役人や政府が保護する寺を相手に裁判を起こして、勝訴した記録を読み解いています。

網野善彦は、まえがきで、13世紀の日本で、世界史的にみても例のないほどの充実した裁判手続が作られ、それに基づいて裁判が行われたことに、ビックリして、これについてもっと考えなければならないと述べています。

網野善彦は、別の本「日本中世の民衆像」の中で、中世の裁判について、こう解説しています。

この史料は、静岡の、傀儡と命名された原告(全員、尼層の姿をした女性だった)が、鎌倉幕府の法廷で、源頼朝の寺(寿量院)の訴訟担当の役人(雑掌)と訴訟を行い、
「幕府の法廷で、幕府の保護する寺院の雑掌と堂々とわたりあって、訴訟に勝ったことを示す史料であります」

これを現代に翻訳すると、
全員女性が、国の法廷で、国の保護する団体(自治体)の代理人と堂々とわたりあって、訴訟に勝った」
ようなものです。

で、こうした裁判はまれなことか?というと、とんでないことで、網野善彦の「日本社会の歴史」の中に、次のように紹介されています。

(1221年の東国・西国戦争<承久の乱>のあと)
鎌倉幕府から任命され、各地の荘園の管理を任された地頭は、幕府の力を背景に、その支配方式を平民百姓に強要‥‥。
しかし、こうした地頭への従属を不当とする平民百姓たちの抵抗が各地で激烈におこり、その訴えを支える領家・預所と地頭との訴訟・相論が各地で頻発した(中巻128頁)

(1333年、鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇の専制のスタート)
後醍醐天皇は、関東の引付にならった民事法廷、雑訴決断所を設け、ここには腹心の貴族や武士だけでなく、関東の旧評定衆なども大幅に採用して、押し寄せてくる膨大な訴訟の解決に当たらせている。(下巻3頁)

網野善彦が編集委員をやっている「日本の社会史」5巻 裁判と規範の中の「中世の訴訟と裁判」の冒頭に、

笠松宏至は、鎌倉中期以降の公家政権の「雑訴興行」(裁判制度を充実し、裁判を活性化させること)が徳政の最重要課題であったことを指摘し、公家政権がそのように対応せざるを得なかった理由を、平安末以来の民間における寄沙汰や大寺社による強訴の盛行、‥‥に求めた。

とあります。

つまり、12世紀から16世紀にかけて、日本は世界有数の訴訟先進国・訴訟超大国だったということです。つまり、この当時の日本人は自分の権利は自分で守るという「市民の自己統治」が常識として確立していたのです。

しかし、その後、秀吉の天下統一、家康の徳川時代になって、これがばたっと途絶えました。そのため、のちの時代の私たちは、500年以上前の私たちがどんな姿だったのか、忘れてしまいました。

というより、この500年間、500年以上前の市民の姿を正しく伝えないように、時の支配者たちは心を砕いて来ました。マスコミももちろんそうです。

私は以前、NHKの大河ドラマの裁判の仕事をしていたので、調べたことがあるのですが、こうした事実は決して紹介しようとしないタブーです。

大河ドラマで、信長、秀吉、家康、武田信玄、上杉謙信は何度も何度も登場しても、彼らの最大のライバルだった一向一揆の百姓たちについては決して取り上げません(もちろん中世の裁判のことも取り上げません)。

しかし、当時、京にのぼる(上洛)一番乗りとされた上杉謙信がなぜ、それが果たせなかったのか?それは一向一揆の百姓たちに京への進撃を阻まれ、それを克服するために消耗して、力を使い果たしてしまったからです。->越中一向一揆・北条との戦い・尻垂坂の戦い

似たような話はやまほどあります。

500年前の日本人が、いま生きていたら、きっと、みんな、市民の自己統治として訴訟を起こしていたでしょう。

500年前の日本人と現代の私たちがそうちがっている訳ではありません。
一方の日本人は、不当なことが行われたんだったら訴訟起こすべ、と当たり前のように思い、
他方の日本人は、不当なことが行われたとしても、訴訟を起こすなんて、と当たり前のように思っています。

どっちになるか、たまたま生まれた時期がちがうだけで、考えがちがってくるなんて、おかしな話です。

太平・平安な時代なら、どっちでもいいですが、
ボヤボヤしていたら、取り返しのつかないことになるときに、どっちの考えが生き延びるために必要かは、500年前の人に聞かなくても明らかです。

補足
中世の研究者網野善彦の「日本中世の民衆像」によれば、

もともと朝廷の儀式の意味として使われた公事(くじ)が、室町時代から、裁判、訴訟の意味でも用いられるようになったのはなぜか?と大変面白い問題だと自問自答しています(76頁~)。

思うに、裁判が個人の小さな問題ではなく、国の一大政治(まつりごと)として位置づけられるようになったからではないかと思います。それくらい、裁判は当時の日本人にとって、頻繁に目にする日常の出来事だったのです。

興味深いのは、ポルトガル語の「日葡辞書」が最近、日本語に翻訳され、それによると、
公事(くじ)をする、という意味が、天然痘にかかる、ことだと紹介されています。
これについて、網野善彦は、こう説明します。
「つまり、いやなことだけれど、だれもがしなくてはならない、世間一般の人が皆すること、という意味なのでしょうか。‥‥公事(くじ)の意味を考えるためにも、これはかなり大切なことだ考えます。(77~78頁)

ここから、次のように考えることができます。

この当時、裁判をするというのは、いやなことだけれど、だれもがしなくてはならない、世間一般の人が皆すること、それくらい、公共の出来事だった、と。

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