2018年2月26日月曜日

忘れられた巨人「幕末の日本人」:会津藩を滅ぼしたのは薩長軍ではなく、会津民衆の世直し一揆だった

いつも不思議なのは、NHK大河ドラマで、信長、秀吉、家康、武田信玄、上杉謙信は何度も何度も登場するのに、彼らの最大のライバルだった一向一揆の百姓たちについては、一度も取り上げないことです(もちろん中世の裁判のことも取り上げません)。

しかし、当時、京にのぼる(上洛)一番乗りとされた上杉謙信がなぜ、それが果たせなかったのか?それは一向一揆の百姓たちに京への進撃を阻まれ、それを克服するために消耗して、力を使い果たしてしまったからです。
->越中一向一揆・北条との戦い・尻垂坂の戦い

これと似たような話は中世だけでなく、幕末にもやまほどあります。

◆幕末、なぜ、会津藩は滅びたのか? 
薩長軍のせいではありません。薩長軍はきっかけにすぎません。会津の民衆が起こした世直し一揆が滅ぼしたのです。

>会津藩でも9月22日に若松城が落ちると、領内(特に戦場にならなかった地域を
>中心)に会津世直し一揆が発生、領内のほぼ全域に拡大した。領民は会津藩主
>松平容保の京都守護職就任以来の重税に対する不満を一気に爆発させ、藩の支
>配組織を完全に解体に追い込んだのである。

◆幕末、なぜ、越後長岡藩が敗れたか?
私の生まれた越後長岡でも、河井継之助が敗れた最大の原因が薩長軍ではなく、長岡の民衆が起こした世直し一揆のせいであったことを最近、知りました。

>長岡藩では5月19日に長岡城が落城すると、米の払下や藩による人夫徴用に反対
>する一揆が発生した。5月20日から吉田・巻一帯で発生した一揆は領内全域に広
>がり一時は7,000人規模にまで達するものとなった。これに対して長岡藩では、
>新政府軍と戦っていた部隊の一部を引き抜いて鎮圧にあたった結果、6月26日に
>ようやく鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動
>員も困難となり河井継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府
>軍に有利に働くことになる。河井継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の
>兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による作戦好機の逸失であったと言える。

以上は、戊辰戦争と慶応4年の一揆


中世に戻って、家康も、家臣の半分が相手方についたという、三河一向一揆ではあやうく死ぬところでした。だから、彼のこの熾烈な経験がその後の民衆支配の方法を考え抜く原体験になり、徳川体制の礎になったと思います。 ->三河一向一揆

信長も秀吉も、中世の既成の大名たちも怖くも何ともなく、最も恐れたのは自分たちと同じ新興勢力の一向一揆衆です。
信長が伊勢長島の一耕一揆衆と3回に及ぶ熾烈な戦闘をし、男女を問わず宗徒を皆殺ししました。
しかし、この過酷な弾圧にもかかわらず、信長・秀吉に敗れた紀伊の雑賀衆の一部は、これに屈服せず、海を越えて韓国に逃げ延び、朝鮮出兵した秀吉軍に対し、鉄砲隊を率いて秀吉軍を苦しめたと言われています。 -> 雑賀衆

中世でも、幕末でも、当時の民衆の力が信長・秀吉・家康らと拮抗するものであった事実は、江戸以来、歴史から抹殺すべき最重要機密情報です。だから、国民的番組の大河ドラマで決してこの真実は伝えない。 原発の安全神話の刷り込みというマインドコントロールは、決して311原発事故に限らず、あらゆる分野の真実の隠蔽として、私たち市民から隠されているのです。

確かに、自分たちが支配者側だったら、これを民衆が知ったら、民衆は自分たちを再定義して、いろんなことをやらかすにちがいない、マスコミよ、ぜったいに隠せ!と風評払拭に励むはずです。

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